英国からの要請を受け、日本政府は5月15日、政府備蓄のファビピラビル、商品名「アビガン」を英国へ提供した。発表は5月18日。対象となったのは、クルーズ船「ホンディウス号」で発生したハンタウイルス感染症への対応である。
アビガンとハンタウイルス――なぜ未承認薬が動いたか
今回、英国側は、感染者と接触した人の発症予防を目的にアビガン提供を要請した。ハンタウイルスには確立された特効薬がなく、治療は人工呼吸管理や透析などの対症療法が中心とされる。重症化すれば、死亡率が30〜50%に達するハンタウイルス肺症候群を引き起こすこともある。[薬事日報]
重要なのは、アビガンがハンタウイルス治療薬として正式承認されているわけではない点だ。英国でも承認薬ではなく、使用はあくまで実験的・人道的治療に近い位置づけとされる。[Reuters Japan]
それでも日本が動いた理由はある。非臨床試験では、ハンタウイルスの一種であるアンデスウイルスに感染させたハムスターに対し、早期にファビピラビルを投与した場合、生存率の改善が示された。特に感染後3〜4日目までの投与が重要だったとされる。[薬読]
つまりアビガンは、「発症してから治す薬」というより、未知の感染症が広がり始めた初動で被害拡大を抑えるための緊急カードになり得る。この点が、今回の供与を単なる医薬品支援ではなく、安全保障上の出来事にしている。
日本が持つ「感染症安全保障カード」
アビガンはもともと、新型・再興型インフルエンザ対策として日本が備蓄してきた国産抗ウイルス薬である。国内では新型・再興型インフルエンザ、重症熱性血小板減少症候群への効能・効果が承認されている。[日本医事新報]
また、エボラウイルスに対しても研究が行われてきた。動物モデルでは抗エボラ効果が示されており、ヒトへの将来的な介入可能性を支持する研究もある。ただし、人間に対する確立した有効性が証明されたわけではない。[ClinicalTrials]
日本は過去にもアビガンを国際支援に用いてきた。新型コロナ流行時には、2020年末までに45か国へアビガンを供与したと外務省資料に記載されている。[外務省]
世界で高まるエボラへの警戒
一方で、世界では再びエボラへの警戒が高まっている。2026年5月、WHOはコンゴ民主共和国とウガンダでのエボラ流行について、国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態と位置づけた。今回問題となっているブンディブギョ型は、承認されたワクチンや特異的治療薬がないとされる。[Guardian]
直近では、コンゴで疑い例が数百件規模に拡大し、治療センターが襲撃され、疑い患者が逃走する事態も報じられている。感染症そのものだけでなく、医療不信・紛争・移動の多さが封じ込めを難しくしている。[AP News]
「恩返しの連鎖」がもたらしたスピード
今回の供与が特別なのは、そのスピードだ。日本政府は英国時間5月15日に提供し、厚労省が5月18日に発表している。英国側は、クルーズ船に乗っていた日本人1名へのチャーター機余席提供や、その後の健康観察にも協力していた。
今回の供与は、厚労省と英国健康安全保障庁(UKHSA)との覚書に基づく相互協力の精神によるものと説明されている。[厚生労働省]
「医療安全保障」という新しい現実
かつて安全保障といえば、軍事力・資源・エネルギー・通信インフラだった。しかし、パンデミック以降、その中心に「医薬品」と「供給網」が加わった。
- ワクチンを持つ国
- 抗ウイルス薬を備蓄する国
- 数日で相手国へ届けられる国
- 相互に支援できる信頼関係を持つ国
それが、そのまま国家の危機対応力になる。
なお、アビガンには副作用リスクもある。動物実験では催奇形性が確認されており、妊婦や妊娠している可能性のある女性への投与は禁忌とされる。万能薬ではない。[厚生労働省]
だからこそ、管理された備蓄と、迅速な外交判断が必要になる。今回の日英対応は、派手な軍事同盟ではない。だが、感染症が国境を越える時代において、命を守る薬を数日で届けられる関係は、ミサイル防衛とは別の意味で重要な安全保障である。
次の危機に備えられているか
ハンタウイルス、エボラ、未知の新興感染症。次に何が来るかは、誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは、危機が起きてから薬を探す国と、危機に備えて薬を持ち、必要な相手にすぐ届けられる国では、生き残る速度が違うということだ。
今回のアビガン供与は、小さなニュースに見える。しかしその裏側には、感染症時代の外交、医薬品備蓄、同盟国支援、そして「命を守る安全保障」という新しい現実がある。
